コリー骨格健治施療院

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クレイ・トムソン物語

クレイ トムソン D.C.のカイロプラクティックとの出会いから、彼の歩んだ歴史を見ることができます。

 クレイ・トムソンは1909年7月8日に、ワイオミング州の小さな町ハートビルで生まれた。父は鉄道員であったが、クレイが生まれたから6ヶ月ほどたった頃に鉄道の仕事を辞めて、イリノイ州のキースバーグに移り住み、そこにあるマッキーボタン社で働いていた。

 その後、第一次世界大戦が始まりイリノイ州のイーストモーリンで国の仕事に従事する事になる。このイーストモーリンはカイロプラクティック発祥の地デブンポートの隣町であったため、カイロプラクティックの話が色々とクレイの耳に入るようになった。

 キースバーグで生活していた頃に父親がひどい腹痛に悩まされ、病院で胆石と診断され手術を勧められたがそれを拒否し、他の治療法を探しカイロプラクティックを受けてみることにした。そのころの隣人がカイロプラクターであったが、友人の紹介で現在住んでいるイーストモーリンで開業しているDr. ジェイムス・デルクに診てもらうことにした。

幸運にも3回の矯正で父親は快復した。

 これがクレイのカイロプラクティックとの出会いであった。これをきっかけに人間の健康に興味を持ち始め、12才になると近所の医師の手伝いをしたりもした。

14才の頃からはメカニックに興味を持ち始め、町で唯一のモーターボートを修理する工場で毎年夏になるとアルバイトをした。そのためシカゴの音楽大学に入学する頃には、かなりのメカニックの知識がついた。

また夕方にはジャックギンレイ薬局でアルバイトをして、薬の知識も身につけた。

 このようにクレイはシカゴの音楽大学に入学する前に様々な知識を覚えていった。

また、クレイは13才の頃から始めた魚釣りも彼の旺盛な探求心で「魚釣り名人」と言われるようになった。釣った魚は1ポンドが13セントで売れたので結構良い収入になり、小型のボートを所有することも出来た。

 ある日彼は、キースバーグからクリントンまで約100マイルのボートの旅に出発したが、運悪くクリントンでボートが故障してしまった。しかしクレイは町で工具を借りて、ものの見事に故障したボート直してしまった。

 やがて、クレイが少年時代を過ごしたキースバーグともお別れするときがやってきた。大学でバイオリンを勉強するためにシカゴに行くことになったからだ。

しかし、人口2500人以上の町に住んだこと無く、いつも川があるところで生活していたクレイは、シカゴのような大都会にはなじめずに2〜3回ホームシックにかかり、泣いて過ごしたこともあった。

 キースバーグ時代にアルバイトをしていた薬局の店主が、友人のシカゴで薬局を経営しているフレッド・レイモンドを紹介してくれたので、クレイはそこでアルバイトをすることになった。大学生活と、夕方6時から夜中の12時までのアルバイトを週に7日間こなした。

 シカゴで1〜2年勉強すると、1929年の世界大恐慌となり全米で金持ち達がビルの窓から飛び降りたりなどの悲惨な状態を目にする事になった。

 このような状態の中で勉強を続けることが出来なくなったクレイは、退学して故郷のキースバーグに帰ってきた。クレイが21才の時である。

 故郷に帰ったクレイは、以前に父親が勤めていたマッキーボタン社に就職したが、まもなくその会社も倒産してしまった。

その後マッキーボタン社の紹介で、アイオワ州のマスカティンにあるボタンの会社に就職することとなった。ここでクレイは、後に婦人となるペギーと出会うことになる。

 マスカティンで行われたダンスパーティーで、クレイはペギーに一目惚れしてしまう。

その後、友人を介して二人は付き合うこととなり1年後に結婚する。

 ペギーもクレイと同じボタン会社で働いていたが彼女の収入は1週間で7ドル、クレイの収入が週に8〜10ドルであった。世界大恐慌のため銀行も商店も閉めたままで、物を買うことすら出来ないほどひどい時代であった。クレイは少しでも生活を楽にするために農家に住み、ブラックベリーを作って売ることにした。

 クレイはセールスの才能にも長けており、300ドル分のブラックベリーを瞬く間に売ることが出来た。これは農家のオーナーが半年かけても手にすることの出来ない金額であった。

このようにしてクレイは大恐慌を運良く乗り切ることが出来た。もといたボタン会社も経営状態が良くないので、ペギーにデブンポートへ行こうと提案したら、快く彼女も承諾してくれたので二人でデブンポート移り住むことにした。

 デブンポートでは、隣町のイーストモーリンのジョンディアー社に雇って欲しいと願い出たが、なかなか雇ってもらうことが出来なかった。

しかしクレイはあきらめずに毎日ジョンディアー社へ通い、ようやくジョンディアー社の持っているオーケストラ楽団の一員として採用されることになった。

この楽団はクレイに時給30セントを払ってくれたので、週に9ドルの稼ぎになった。

 しばらくするとジョディアーは、クレイにメカニックの知識があることを知り、クレイをエンジニアとして研究部門に配属してくれた。

またクレイは、この部門で働きながらエンジニアの学位を取るために通信教育の学校に入学した。クレイの給料は今までより上がったが、同じ部門で働く油圧クラッチを発明したアールスタットの勧めで、2人でキースバーグに会社を興した。

しかしその会社も2〜3年でだめになり、再度イーストモーリンのジョンディアー社の下で働くことになった。

 クレイとカイロプラクティックの出会いは、父親が胆石の激痛に見まわれたときであったが、クレイ自身がカイロプラクティックを経験したのは丁度この頃であった。

クレイは急性の糖尿病を患い、勤めていた会社の嘱託医から、1週間から10日ぐらいしか持たないと言われてペギーや他の家族と話し合った結果、どうせ医学で治らないのなら、昔知り合ったカイロプラクターに診てもらおうということになった。

 クレイの父親を治したカイロプラクターはデモインに移り住んでいたので、クレイは汽車で彼のもとへ向かった。

クレイが10代の頃に出会った、そのカイロプラクターはすでに80才になっていた。

老カイロプラクターは、クレイに服を脱ぐよう指示をすると彼の背中を不思議な器具で測定するので「私は糖尿病で、背中は悪くないのです。」と言うと、老カイロプラクターはまず背中を調べさせてくれと言い、続けてレントゲン撮影を行った。

レントゲン写真を見ながら老カイロプラクターは「クレイ、この骨とこの骨がずれているのが解るか?」と言うのでクレイは「それは解りますが、糖尿病とは全く関係ないんではないですか。」と答えた。老カイロプラクターは「今に解るよ。」と言いアジャストルームに連れて行った。

老カイロプラクターがクレイの背骨を矯正すると、大きな音がして骨が動くのがクレイ自身も解った。

その夜、クレイは久しぶりに熟睡することが出来た。

老カイロプラクターは16日間、毎日クレイを矯正して彼を糖尿病から解放した。この事でクレイはカイロプラクティックによりいっそう興味を覚えた。

 デモインでのカイロプラクティックの治療が終了して元気になったクレイは、キースバーグに帰り会社の顧問医のもとを訪れた。医師は、「今までどこへ行っていたんだ。」と聞くので、クレイは「私は専門家の所へ言っていたんです。名前はDr. ジェイムス・デルクです。」と答えた。医師はAMA(アメリカ医師会名簿)を調べ始めた。しかし名前がないのでクレイに尋ねると。「彼はカイロプラクターです。」とクレイは答えた。

医師は、「時には自然が威力を発揮するときもあるかも知れない。」と言った。

 クレイがカイロプラクティックに興味を覚えたもう一つの理由は、かつてクレイが働いていたシカゴの薬局で薬剤師をしていたエドゴルソンが、いつもカイロプラクティックの話をしていたからだ。なぜならば彼の弟がパーマースクール オブ カイロプラクティックを卒業して成功していたからだ。彼の弟はいつも兄であるエドに「薬なんかいらないよ、背骨を矯正したら病気は治るんだよ。」といつも言っていた。クレイはエドと一緒に、彼の弟のクリニックの見学もした。

 クレイは、「私が最初に糖尿病を患ったときに、Dr. デルクがカイロプラクティックの哲学を話してくれていたなら、私は10年早くパーマースクール オブ カイロプラクティックに入学していただろう。この事が唯一悔やまれることであった。」と後に話している。

 クレイは1945年の秋の学期に弟と2人でパーマースクールに入学した。

卒業後、弟もカイロプラクターになったが、2回も開業に失敗して音楽の道へ進んだ。

ラッキーだったことは、パーマースクールに入学してDr. ハーブ・ヘンダーに出会ったことだった。

彼がクレイをB. J. パーマーに紹介してくれた。また彼は彼のルームメイトであったDr. ニック・クィグリーにも紹介してくれた。

 クレイは彼ら2人を田舎のキースバーグへ連れて行き、クレイの所有するボートに乗って3人で釣りに行った。3人とも釣りが好きだったので金曜日になるとキースバーグへ行き、釣りをするのが週末の楽しみになった。

 この頃パーマースクールの先生達は皆、カイロプラクティックの哲学を話した。化学、骨学、解剖学などの先生も含む全ての先生が、時間を見てカイロプラクティック哲学を話した。

大学の食堂でも、学生達は哲学の話で持ちきりで、現在のパーマー大学とは違った雰囲気であった。誰もがカイロプラクティック哲学に興奮し、論議に夢中になった。

 B. J. パーマーは週に1回、講堂に全学生を集めた。夜の8時10分前に来て、8時になると「グットイブニング」と言って講義を始めた。1分でも遅れた学生には「ゴー ツウー ヘル(地獄へ行け)」と言ってドアに鍵を閉めた。講義中は誰も入れないし、トイレのために外に出ることも出来なくした。

B. J. はあらかじめ用意した原稿を読み、それが終わると哲学を話した。これが学生にとって最大の楽しみであった。

 有名な話だが、B. J. パーマーは毎日夜9時になると休み、朝3時には必ず起きて思いついたことをタイプすることを毎日行っていた。そのようにして出来たカイロプラクティック哲学を、夜8時に学生達を集め、話をしたのである。

学生達はB. J. パーマーの話に興奮し、パーマースクールは哲学によって大きな団結を得た。

 後にB. J. パーマーはこのような講義に疲れて、行わなくなったが、B. J. クリニックの中にあるB. J. パーマーがコレクションしたナイフの飾ってある部屋に、クレイは何人かの学生と共に行きB. J. パーマーから哲学の話を聞くのが楽しみであった。

 クレイがパーマースクールに入学する少し前からB. J. パーマーはエレクトロエンセファロメンティンポグラフの完成に力を入れていた。

 クレイがレントゲン学科で、様々なレントゲン写真を見た結果、最初の撮影と治療後の撮影の正確さに疑問を抱き、彼は撮影時に頭を固定する器具「ヘッドクランプ」を発明して特許を取った。さらに1952年には「ヘッドピース」をデザインした。1949年にはクレイは18ヶ月コースを終了したが、その後4年間パーマースクールに残り、P.H.Cの称号を取得したが、後にC.C.Eがこの称号を返却するようにクレイやD. D. パーマー、Dr. ニップ・クィグリー、Dr. ゲイレン・プライスに言った。クレイ以外のドクター達はそれに従ったが、クレイはC.C.Eの人たちを「ゴー ツゥ ヘル」と言って追い返したので、クレイはその後もP.H.Cの称号を持っている。

 クレイがパーマースクールで学んでいたときの先生で、Dr ライル・シャーマン(後に彼に敬意を表してシャーマン大学が設立された)がとても印象的だった。

 クレイは卒業する6ヶ月前からパーマースクールの教壇に立ち、テクニックと衛生学を教えながら、学生クリニック(当時は入学して6ヶ月後にはクリニックで患者を診る事が出来た)で得た180名の患者がそのまま彼のもとに来たので、開業と同時に安定した収入を得ることが出来た。

 卒業間近になるとパーマースクールで教えられたアトラス、アキシャスの矯正だけでなく色々なアイデアが浮かんできた。しかし、この頃のパーマースクールで骨盤や仙骨を触ったら退学になってしまった。

 クレイは常に体のバイオメカニズムを考えていた。ある日、Dr. チャースが赤ん坊をアジャストするのを見てひらめきが沸いた。それがもとで1952年にトムソン・パーマー・ヘッドピースを発明し特許を取得する事となった。

 次にクレイが開発したのはヘッドピースの部分が磁気によってヘッドピースが落ちるときに加速度が付くメカニックの物で、これをB. J. パーマーはとても気に入ってくれた。

 クレイはB. J. パーマーを何回となく矯正したが、いつもB. J. パーマーは「クレイ、ちょっとここが違うんじゃないか、クレイここのところが正しくない・・etc」など難癖を付けて、B. J. パーマーが一番ということを強調した。

後にクレイは「B. J. は私が、No. 2であることを示したかったのかもしれない。B. J. がNo1. であり私はその次のNo. 2であることを。」と話していた。

 B. J. パーマーはクレイが新しく作ったヘッドピースに横になりクレイにアジャストするように言った。

クレイはB. J. を横向きに寝かせ素早くターグルリコイルを行った。するとB. J. は「クレイ、これは私が受けたアジャストの中で最高の物だ。私はこのようにアジャストによって最高の気分になったことは今までなかった。このテーブルが欲しい、このテーブルを学園祭の前に作ってくれ。」と言った。

 B. J. は欲しい物があるとすぐに欲しいという癖があった。学園祭まで後一週間しかなかったが、クレイは作り上げて、学園祭に全米から集まったカイロプラクターに賞賛された。

 1940年代のパーマースクールは資金不足に悩まされていたので、クレイはこのテーブルのパテントをパーマースクールへ贈与した。このことによりパーマースクールは資金不足から開放された。

B. J. パーマーは、クレイの作ったヘッドピースを全身のアジャストに使えるように応用してみたらどうだ、とクレイに言ったので彼は驚いてしまった。なぜならB. J. パーマーはアトラス、アキシャス以外のサブラクセィションを信じていなかったからである。

B. J. パーマーはクレイにこう言った。

「時にはアトラス、アキシャス以外の所を矯正しなければいけない時があるかもしれない。」

 このB. J. パーマーの一言で、クレイはトムソン・ターミナルポイントテーブルを作ることになる。1958年頃のことであった。

やはりB. J. パーマーは学園祭に間に合わして欲しいと言ったが、今回は学園祭まで時間があったので、デブンポートの西にある工場で様々なテストをしながら、何ヶ月かけて作り上げることが出来た。

 学園祭でクレイは、B. J. パーマーの治療方針が変わったと多くのカイロプラクターから言われるのではないかと心配したが、B. J. パーマーは基本の上部頸椎メィジャーは全く変えなかった。

この時発売されたトムソン・ターミナルポイントテーブルの1号機は、現在サラソタのB. J. 博物館に保存されている。

 B. J. パーマーは偉大なカイロプラクターであった。彼は常にカイロプラクティックの科学を求めて、より正確なデーターをもとにしてカイロプラクティックを発展させてきた。

B. J. パーマーはクレイの機械工学の能力を高く評価していた。

 ある都市の学園祭が近づくと、B. J. パーマーはクレイを呼び、彼に脊柱をNCM(ニューロカロメーター)で仙骨から後頭骨まで測定するときの速度が人によって違うので、正確な情報が得られないので一定の速度で測定できるようにして欲しいと言った。

クレイは早速、デブンポートの西にある工場で研究した。そしてモーターを取り付けることによって一定の速度で、誰にでも同じように測定できる器具を発明した。

 このような発明のパテントを全て、クレイはパーマースクールに渡した。そのためパーマースクールは常に資金に困ることはなかった。B. J. パーマーのクレイに対する信頼は絶大であった。

 このようにカイロプラクティックの発展に尽くしたクレイの唯一の楽しみは、釣りであった。

ある日、Dr. マートン・ガンステッドに南米のアマゾンに釣りに行こうと誘われたので、行くことになった。南米まで飛行機で行き、そこから小型飛行機に乗り換えて、やっとアマゾンの釣り場にたどり着いた。

釣り場の近くにある原住民の村を見学に行こうということになり、クレイとマートン、それに2人の医師と通訳や道案内の数人で原住民の村へ行った。

 村ではウィッチドクターが一生懸命にお祈りのようなことをしていた。

案内人は、この村の村長が病気でひどい頭痛と腹痛に悩まされている、誰か治せる者はいないかと言ってきたので、医師でなくカイロプラクターのクレイにその役目が回ってきた。

クレイは村長の頸を触診すると、頸椎2番が右の方に出っ張っていたので、その部位を古いやり方のロータリーブレイクで矯正した。大きな音がしてしばらくすると村長は頭痛と腹痛がとれたと言って大変喜んでくれた。

 クレイ達一行は、もし村長が良くならなかったならば、この村から出ることが出来ないかもしれないと不安でいっぱいだったので、良くなったことで皆安心した。

1年後に同じ村に訪れると案内人は、実は村長はボコタの病院で癌と診断されていたが、クレイの矯正後に体調が良くなって元気になったと話した。村長はクレイが来たことを知り、もう一度矯正を受けたいと言っていると、伝令が来たのでクレイは村長を治療することになった。村長は喜んで家族と一緒に写真を撮ることを許してくれた。当時アマゾンの原住民と写真を撮ることなど、通常では考えられないことだった。

 クレイほど人間味にあふれ、アイデアに富んだカイロプラクターに著者は出会ったことがない。

B. J. 哲学を最後まで守り通した、偉大なる哲学を持ったカイロプラクターである。

塩川満章 D.C.

塩川満章 2001 『トムソン ターミナルポイントテーブル アジャスティング テクニック 基本と応用』 ルネッサンス・ジャパン 111-117

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